4月10日「エリ、エリ」
マタイによる福音書27章32−56節
先週に引き続き、私たちはレントの時を過ごしています。先週のお話は、イエスが弟子達に十字架で殺されて、復活することを予告した場面でした。しかし、無理解な弟子たちは、この世での権力をイエスに求め、イエスの十字架の予告を理解しなかったことが明らかになったのでした。
そして、今日の聖書のお話で、いよいよイエスは十字架に架けられます。この十字架でのイエスの処刑の物語から、“神は私たちを愛しておられる”ということを改めてテーマにして、お話したいと思います。
先週のイエスの予告の後、イエスと弟子達はエルサレムの町に入りました。イエスはエルサレムにおいて十字架で処刑されることを予測していたにも関わらず、その道を着実に進んでいたのです。
イエスは、神の御心に従いたいという気持ちと、そうは言っても、十字架にかかりたくないという相反する気持ちが格闘していたのでしょう。イエスは、ゲッセマネの園で祈り、十字架での死が避けられるようにと神に祈りました。
しかし、イエスは最終的には「御心のままになりますように」と神に応答し、逮捕されて、イエスは十字架の道を歩まれることになるのです。
そこで、今日の聖書の物語です。もっとも、印象に残る言葉は、イエスの最後の言葉ではないでしょうか。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」なんの呪文だろうかと思うわけですが、これはヘブライ語で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味だと説明されています。
逮捕される前、ゲッセマネの園で「御心のままになるように」と祈ったイエスですが、やはり最後まで十字架にかかることを望まなかったのでしょう。それもそのはずではないでしょうか。
皆さんもご存知の通り、イエスが処刑される十字架刑というのは、ローマの処刑方法で、当時最も残酷な処刑方法でした。それ故、ローマ市民には十字架刑を行わないという掟もあった程です。それほど、ひどい処刑方法だったのです。
十字架刑には、一連の流れがありました。まず、鞭打ちの刑がありました。鞭で40回程打たれます。鞭には、鉄、骨、ガラスが埋め込まれています。それで打たれることで、受刑者の皮膚や肉は深く傷を負います。この時点で、死んでしまう可能性も十分にありました。
それから、イエスの場合、ローマ兵によって、茨の冠を被せられ、侮辱され、冠のトゲを食い込ませるが如く、頭を棒でガンガンと叩かれました。想像しただけでも、なんと痛々しいことでしょうか。私ならとても耐えられないです。皆さんもそうではないでしょうか。
その後、イエスは処刑所であるゴルゴタの丘まで、十字架を背おって移動しなければなりませんでした。さらに、この十字架刑は、公開処刑でした。人々に嘲られながら、イエスは十字架までの道のりを歩まねばならなかったのです。
人々の嘲りは、十字架が起き上がるまで続きます。「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『私は神の子だ』と言っていたのだから」と祭司長、律法学者、長老たちは侮辱しました。
きっと、イエスは、肉体的にも精神的にも極限状態にあったに違いありません。聖書は包み隠さず、イエスの最後の様子について語ります。肉体的な極限状態は言わずもがな、イエスは精神的にも極限状態であったというのは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」に現れていると思います。
イエスは、神に呼びかける時に、どのように呼びかけなさいと言われたでしょうか。主の祈りにもあるように、神を呼ぶとき、父を呼びかけるようにと教えました。この父、アバという言葉は「お父ちゃん」というような親しい呼びかけです。しかし、イエスはここで「エリ、エリ」と呼びかけます。「わが神、わが神」とよそよそしく呼びかけるのです。
イエスが逮捕される前のゲッセマネの園での祈りではどうだったでしょうか。「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」とイエスは祈ります。「父」と呼び、「御心のままに」と祈ったイエスでしたが、まさに、十字架上において、イエスは神を父とは呼ばず、「なぜ私をお見捨てになられたのですか」と問います。
神に対する信仰が、イエスですら揺らいだ瞬間であったのではないかと思います。神が自分のそばにいると感じるのではなく、見捨てられたと感じるほどです。イエスは孤独だったのではないでしょうか。自分の死を望む者たちに囲まれ、そして、神は御顔を隠されるのです。精神的にも極限状態だったのでしょう。
では、どうして、神はイエスをお見捨てになられたのでしょうか。残酷な処刑から、どうしてイエスを助け出さなかったのでしょうか。律法学者たちのいうように、神の御心ならば、イエスは救われたはずです。しかし、神の御心は、イエスを十字架につけることにあったのです。
ふと、アブラハムとイサクのお話を思い出しました。創世記22章のお話です。神はアブラハムに命じます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と言います。
イサクはアブラハムが100歳の時の子どもで、本当に大切にしていた子どもでした。しかし、アブラハムはイサクを連れて、神の命じられた山に登ります。そして、祭壇を築いて、本当にイサクを縛って、火をつけようとするのです。神は、それを見て、アブラハムを止めました。そして、アブラハムの信仰を見て、彼が神を畏れる正しい者であることを認めたのです。
神はイエスを十字架へと導かれました。そして、イエスを十字架で処刑されるのです。何のためでしょうか。それは、独り子イエスを生贄として、私たちの罪を赦すためです。
本来ならば、わたしたち一人一人が生贄を用意して、神に罪の赦しを求める必要がありました。しかし、神の独り子イエスによって、神は私たちすべての人のための罪の生贄とされました。
それでは、なぜ神は生贄を求めるのでしょうか。それは、神が生贄を見て、人々の信仰を確認する意味合いがあります。では、イエスの生贄としての死に意味はあるのでしょうか。
つまり、私が言いたいことはこういうことです。イサクを生贄として献げるように命じたのは、アブラハムの信仰を試すためでした。しかし、人々の罪のためにイエスを生贄に捧げた神は、人々の罪を赦すか、赦さないかは、自分の裁量次第だった筈です。わざわざ、独り子イエスを残酷な十字架刑に架ける必要など、神にはなかったのではないかと思います。
改めて、イエスの十字架は何のためだったのか。イエスの苦しみ、孤独、死は何の意味があるのか。誰のためだったのかと考えさせられます。それは、完全に私たちのためです。私たちがイエスの十字架を仰ぐ時、独り子イエスを十字架にかける程に、神は私たち人間のことを愛おられるということに気づくためです。
神は独り子イエスをこの世へと遣わし、十字架に架けられるほど、私たちを愛しておられます。言葉では形容できないほどの驚くべき神の愛が私たちに注がれているのです。
では、私たちに対する愛を示された神は、私たちを愛するが故に、独り子イエスはどうなっても良かったのでしょうか。私たちに対する愛を示す一方で、イエスを十字架につけた神は、冷酷な感じもします。
いや、神も心を痛めていたのではないかと思います。イエスが苦しみ、孤独を感じ、神に見捨てられたと感じていた時、神も断腸の思いであったのではないかと思います。
イエスが十字架上で息を引き取った後、天変地異が起こったと言います。地震が起こり、岩場が避け、そして、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。神学的には、この神殿の垂れ幕の裂けは、誰でも神に近づくことが出来るようになったことの象徴であると言われます。
すなわち、神殿の奥にある至聖所と呼ばれる神のおられる部屋と、その他の部屋を隔てるための垂れ幕が、真っ二つに裂け、通常、大祭司しか垂れ幕を超えて、至聖所に入れなかったのが、誰でも至聖所に到達できるようになったということです。誰でも、神に祈りを捧げること、神の近くに近づくことが出来るようになったということです。
けれども、垂れ幕の裂けの意味は、それだけではないように私には思えます。もし、神の心情を読み取ることがここで赦されるなら、垂れ幕の裂けは、神の悲しみ、葛藤の表現ではないかと思うのです。聖書の時代のユダヤでは、深い悲しみを表現するために、人々は自分の衣服を引き裂く文化がありました。
例えば、創世記の中で、ヤコブは獣に息子ヨセフが噛み裂かれたと思い、自分の衣服を引き裂き、悲しみを表現しました。(創世記37:34)ヨブ記の主人公のヨブは、自分の家族が皆死んでしまったことを聞き、自分の衣服を引き裂きました。(ヨブ1:20)
このように、自分の家族を失った時などに、ユダヤの人々は自分の衣服を引き裂き、深い悲しみを表したのです。同様に、神はイエスの苦しみと死の悲しみを、神殿の垂れ幕を引き裂くことで表現したのではないかと思うのです。
つまり、私たちの信じる神は、人の心の分からない神ではありません。十字架に独り子をかけるということを決して平気だったわけではないのです。むしろ、深く深く悲しんでいたのではないかと思います。
しかし、その悲しみ以上に、神は私たちを愛していることを伝えたかったのではないでしょうか。ヨハネによる福音書にはこのようにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:16)」
さて、私たちにも苦難が降りかかり、イエスのように、わが神、わが神と神に祈る時があるのではないでしょうか。どうして、私にこのような苦難を負わせるのですか。どうして、助けてくれないのですか。沈黙される神に問いかけることがあるのではないでしょうか。私たちも神に見捨てられたのだと感じることがあるのです。
しかし、そのような時でも、神は決して見捨てられた訳ではありません。神も深く深く悲しまれています。そして、イエスが死から復活へと移される瞬間があるように、私たちを光へと導く瞬間を待っておられます。私たちが神は沈黙されているように感じる時でも、確かに神はそばにおられます。すべての出来事に時があり、神はその時を待っておられるのです。独り子を世にお与えになり十字架までの道を歩ませるほどに、私たちを愛された神に信頼して生きていこうではありませんか。