2022年5月22日「聞く耳はあるか」

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2022年5月22日「聞く耳はあるか」

マルコによる福音書4章26−34節

今日の聖書箇所の最後には、「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」とあります。イエスは神の国について、“人々”にはたとえで話し、一方で、ご自分の弟子たち、すなわち“十二弟子たち”にはたとえの意味を解説されました。

 何故、十二弟子たちには、たとえで話さず、すべてを理解させたのでしょうか。単にイエスの一番身近にいた存在だったからでしょうか。今日は、このことについて考えていきたいと思います。そして、そこから私たちは何を学べるのでしょうか。

 私事ですが、北海道に来るために飛行機に乗った時、こんな大きい鉄の塊が空を飛ぶなんて不思議だなと思いました。エンジンの前に進む力と翼があれば飛びそうだ。そんな簡単な理屈は想像できても、どのような根拠があって、翼の形が何故こうだとか、どれくらいの馬力のエンジンがつまれているのかは、具体的にはわかっていない。

 

 これと同じことですが、子どもの時からずっとテレビも不思議で仕方がありませんでした。何故か、リモコンのボタンを押したら電源がつき、電波を受信し、モニターに映像が映し出される。その箱の構造が分かっていなくても、私たちはテレビを観ることが出来ます。

 大人になってからは、パソコンも同様で、何故、マウスを動かすと画面上のカーソルが同じように動くのだろうと不思議に思っています。パソコンで検索エンジンに言葉を入力すれば、世界中の公開された情報を見ることが出来ます。

 このように、私たちの周りには、理屈がわからなくとも、当たり前のように使用している物がたくさんあります。これが一般的に“ブラックボックス”と呼ばれるものです。一般の人々は、物の内部の動作原理や構造などの仕組みを理解していなくても、それが何のためにあるのかを分かっていれば、満足にそれを使用することが出来ます。

 イエスの時代の人々にとってのブラックボックスは、植物の種だったと言えるでしょう。その中でも、特にからし種は不思議な存在だったのかなと今日の聖書の箇所を読んで思いました。

 今日の聖書の箇所であるマルコによる福音書6章26節で、イエスは神の国について、このように言われています。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」土に種を蒔けば、種はひとりでに芽を出すが、それが何故だか人々には分からないと言います。

 このように、神の国は種にたとえられています。土に蒔かれた種が、どのようにして成長していくか分からないように、神の国がどのように実を結んでいくのかは誰にも分からないということでしょうか。

 続いて、マルコ6章30節で、イエスはこのように言われます。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種より小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」

 からし種はあらゆる種の中でも小さいものです。私たちの身近なもので言えば、マスタードの中の粒がからし種です。しかし、イエスのたとえ話に登場するからし種は、あれよりもさらに小さい種類のものだろうと考えられています。

 そして、種のままでは極小であるからし種は、土に蒔かれて成長すると、大きいものだと5m程のとても立派な植物になります。これと同様に、神の国は小さく、誰にも気づかれないところから、誰にも無視できないほど大きく豊かに広がっていくのです。

 さて、神の国をどのように定義するかですが、今日のところは、単純に“神の教えが守られ、実現する範囲”であると考えたいと思います。イエスの教えは、2000年前から徐々に広まり、今では、世界中でその教えは守られています。

 しかし、イエスご自身がその教えを積極的に世界に広めたのではありません。イエスの弟子たち、特に十二弟子を中心に広められていったのです。十二弟子たちがイエスの教えを伝えていった様子は、使徒言行録に書かれています。それは決して、簡単な出来事ではなかったことが分かります。

 では、イエスに最初に選ばれた十二弟子たちは、それほど優秀な人物の集まりだったということでしょうか。困難な状況をものともしないほどの知恵や才能や人望に溢れていたのでしょうか。

 使徒言行録4章13節において、十二弟子たちについて、このように伝えられています。「議員や他の人たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、またイエスと一緒にいたものであるということも分かった」

 十二弟子であったペトロとヨハネは、イエスが死者の中から復活したことを民衆に教え、その結果、牢屋に入れられました。そして、大祭司、議員、長老、律法学者など、当時のユダヤの指導者たちの前で、雄弁に語るのです。この姿を見た議員や他の人たちは、彼らが実は無学な普通の人であったことを知って驚いたという話です。

 十二弟子は当時、無学だとされていた漁師が多かったのです。学者ではない無学で普通の弟子たちが、力強く人々の前でイエスの教えについて語りました。そして、世間からの迫害があっても、彼らはイエスの教えを死ぬまで語り伝えたのです。

 その結果、キリスト教は一部の地域の宗教ではなく、世界宗教となるまで拡がったのです。これは、本当に奇跡的な出来事ではないでしょうか。

 冒頭で、イエスは“人々”にたとえで話す一方で、何故“十二弟子たち”だけにはたとえの意味を解説して理解させたのかについて考えたいと言いました。ここに、その答えがあるのではないかと思います。

 すなわち、からし種のような小さな存在であって、人々に何かを教え伝えるには、力不足だと思われていた弟子たちが、神によって用いられた。その結果、豊かに実を結んだのです。これは単なる結果論ではありません。このブラックボックスを人々が見るとき、そこに何らかの神の力が働いていることを、私たちは知ることが出来るのです。

 しかし、十二弟子たちがただ無学であったから、イエスに選ばれたのではありません。イエスが群衆と十二弟子との間に、何か決定的な差を見出したから、彼らは選ばれたのではないでしょうか。

 マルコ4章33節以下にはこうあります。「イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」

 イエスは聞く力に応じて、たとえで語られたと言います。聞く力に応じてということはどういうことでしょうか。よく聞こえるか、聞こえないかの聴力の問題ではないことは明らかです。やはり、こういうことではないしょうか。ある教えに触れたとき、その教えを自分に関係のあることとして受け入れる人々が聞く力のある人であり、関係ないとして無視してしまう人々が聞く力のない人々であるということです。

 これは、今日の聖書箇所の直前である4章13節以下の「種を蒔く人」のたとえでも言われる通りです。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」

 これに対して、律法学者やファリサイ派のように、自分の意見が正しいと考えている人々は、たとえ、イエスの言葉が耳に届いていたとしても、本当の意味で、神の言葉を聞くことが出来ないのです。

 そして、イエスの弟子たちは、この“聞く力”に長けていた訳です。十二弟子たちは、無学で普通の人間であると自分自身の中で謙遜の思いがあったからこそ、イエスの言葉に素直に耳を傾けることが出来たのではないでしょうか。神の言葉を聞くには謙遜を必要とするのです。

 ここで、神は高慢な者を退け、素直な者、へりくだった者を高くあげられることが分かります。それは、パウロがコリントへの信徒への手紙一1章27節で、このようにいう通りです。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力にするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」これが神の国の不思議です。「それは、だれ一人神の前で誇ることがないようにするためです(Ⅰコリ1:29)」

 さて、私たちには神の言葉に耳を傾ける姿勢があるでしょうか。自分を一角の人物であるという認識は、“聞く力”を衰えさせます。高慢につながります。しかし、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる(ヤコブ4:6)」といわれます。

 一方で、神は悲しみ、嘆き、泣くものを特に優しく包み込んでくださいます。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高めてくださいます(ヤコブ4:9)」

 神は無理に笑いなさいと言いません。むしろ泣きなさいと言います。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさいといいます。悲しむことも泣くことも肯定してくださいます。

 何故なら、自分の力ではどうしようもないことと向き合う時、人は悲しみ、泣き、そして、神の前でへりくだることが出来るからです。このようにして、神の言葉をきく姿勢が整っていくのです。

 これは、イエスが山上の説教でこのように言われるとおりです。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」悲しむ人はなぜ幸いなのでしょうか。それは、その人のへりくだった心を見て、神が慰めてくださるからです。

 今日、私たちが学べることは、神はこの世の道理と反対のことをされるということではないでしょうか。つまり、今栄えている者は高ぶりにより退けられ、へりくだった者が高くあげられるという理です。そこで、私たちにどんな時でも求められること、それは神の言葉に耳を傾け、へりくだり、与えられた恵みに感謝して生きるということではないでしょうか。

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