2022年5月29日 「イエスはゆるされる」

マルコによる福音書2章1−12節
「子よ、あなたの罪は赦される」イエスは床に寝ている中風の人に対して、このように言いました。何故、イエスは中風の人を見た時、最初の一言として「あなたの罪は赦される」と言われたのでしょうか。今日は、中風の人の癒しの物語を通して、私たちを襲いくる困難は神からの罰ではないということ、そして、私たちは神と向き合う恵みを与えられているということについて、考えたいと思います。
さて、中風とは何でしょうか。中風は、脳卒中の後遺症によって、半身不随や言語障害などを発症している状態だそうです。私にとって、聖書の中でしか聞きなれない言葉だったので、“中風”について少し調べてみました。そして、とある脳神経外科のホームページを見つけました。そこには、何故、漢字で“中風”と書くのか、その説明がされていました。そこには、このようにありました。
『脳卒中は、その原因が分かっていなかった昔には、「中風」と呼ばれていました。この「中風」と言う言葉のうちの「中」と言う文字には、「何かにあたる」と言う意味があって、脳卒中は「悪い風にあたって突然に倒れる病気」と言うふうに考えられていたため、そう呼ばれていたのです』
つまり、脳が原因だと分からず、「悪い風にあたって突然に倒れる病気」と考えられたために、中風と呼ばれたということだそうです。また、これは日本だけでなく西洋でも同じように考えられていたようです。
『脳卒中のことを、西洋では、古くからストロークと呼んでいました。これは「打つ、たたく」と言う意味のストライクという言葉に由来しています。脳卒中の原因の分からなかった時代には、「神の手でたたかれて急に倒れる病気」と言う風に考えられていたため、こう呼ばれていたのです。』
“神の手でたたかれて急に倒れる病気” 原因が分からないため、その原因を神のせいだとするのは、大変西洋らしい発想と思います。今でこそ、脳が原因であると分かっている訳ですが、確かに何も前触れなく突然、手足の痺れがあり、力が入らない、言葉もうまく話せないとなると、 “悪い風”や“神”がその原因となっていると考える気持ちも分かる気がします。
これについては、今から2000年前のイエスの時代ならば、尚更だった訳です。あらゆる病気において、何が原因でそのような症状が出ているのか分からない。それ故に、目に見えない力によって、病気があらわれている。神の見えざる手がその人を苦しめているのだ。神によって、病気が与えられているのではないか。
聖書を読むと、イエスの生きた当時の人々が、このような勘違いをしていたことを読み取ることができます。これは、今日の聖書のお話からも分かることなので、後で詳しくお話したいと思います。そして、“病気は神によって与えられる”という、この勘違いは更なる偏見を生みました。
神が病気を与えられるということは、この人が何か悪いことをしたからだ。この人の悪行を見て、神が罰を与えたのだ。だから、この人は罪人なのだ。病気に対する無知は、このような差別と偏見を生み出したのでした。
さて、今日の聖書の物語ですが、このような病気への無理解、差別と偏見が背景にあったことをふまえて考えたいと思います。
物語の舞台は、カファルナウムのとある家でした。誰の家か書かれていませんが、書かなくても、読者に分かるようなシモンやアンデレといった弟子達の家だったのかも知れません。
すると、イエスはもしかすると、仲間の家でゆっくり休みたかったのではないでしょうか。しかし、その願いに反して、その家にイエスがいることが知れ渡り、大勢の人々が押しかけてしまいます。
その様子は、戸口のあたりまですきまのないほどだったとあります。当時のイスラエルの家について、多くのことは分かりませんが、大きな部屋が一つあるというのが、一般的な家の構造だったようです。
大きな部屋一つをすきまなく埋め尽くすほどの数の群衆が、イエスの元に集まりました。何故なら、今日の聖書の箇所よりも前に、カファルナウムでイエスは多くの病人を癒し、その噂が、町中に広まっていたからです。それでは、家いっぱいに人々が集まるのも仕方がありません。
そんな中、ある人たちがイエスに近づいて、病気を癒してもらいたいと考えました。それが、中風の人とその仲間である4人の男です。この中風の人と4人の男はどのような関係だったのでしょうか。
おそらく、親友と呼べるものだったのではないかと思います。原因が分からず、急に身体を動かせなくなる友人を見て、どうにかしてあげたいと考えたのでしょう。たとえ、病気は神からの罰で、汚れであり、うつるものだと考えられていたとしても、この4人の男は中風の人を見捨てなかったからです。
話を読み進めますと、4人の男が床を担いで、屋根へと登り、その屋根を剥がし、中風の人の床をイエスのところまで降ろします。
当時の屋根は、木の梁と枝を編んだものに粘土の覆いが被せられてできていたといわれています。そこに、毎年雨季に入る秋に、修理のために屋根に登るための階段が備えられていました。彼らは、その階段を登って、屋根をぼきぼきベリベリと剥がして、そこから、イエスのもとに上から降ろしたのです。ここでも、4人の男たちの中風の人との強い友情が分かります。
もしかしたら、4人の男たちは、中風の人に対して、このように思っていたかも知れません。「こんないい奴が、神さまから見放されるなんておかしいだろう」以前から、この中風の人を知っていた4人は、この中風の人を“罪人”だとは到底思えなかったのではないでしょうか。
しかし、中風になった本人はどうでしょうか。病気は神からの罰であり、何か自分が悪いことをしたから、こんな状況にいるのだ。たとえ、思い当たる節がなくとも、心まで荒んでしまったのではないでしょうか。
この当時、病気になるということは、自分の過去すらも否定されてしまうということです。また、周りの人々からは、心ない言葉を投げかけられ、冷たくあしらわれたことでしょう。生きる気力さえも失ってしまっていたかも知れません。
さて、このような因果応報的な考え方は、現代の私たちの考え方でもあります。何か原因があって、結果がある。次のようなことわざが言い表す通りです。
「情けは人の為ならず」良いことをすれば、良いことが自分に帰ってくる。「身から出た錆」自分の犯した悪行が、自らを苦しめる。なので、私たちは何か良いことをしようとして、悪いことはしないように努めます。
しかし、このような努力をしても、自分の力ではどうしようもない不幸が私たちを襲うことがあります。自分自身でその原因を考えて、次に生かすことが出来る出来事なら、失敗を反省し、次に備えることが出来ます。
しかし、どうでしょうか。本当に、自分の力ではどうしようも出来ない出来事が突然起こることがあるのです。このような時には、自業自得ではないのに、人々から自業自得で片付けられてしまうことがあります。
このような時に、このように考える人がいます。それは、神などいないということです。何も悪いことをしていないのに、このような不幸が私を襲うのは、神などいないからだと結論づけるのです。
もしくは、このような人もいるでしょう。たとえ、神がいたとしても、神は自分を嫌って、罰を与えていると考える人です。自分を好きではないから、神はこのような不幸な目に私を合わせるのだ。おそらく、クリスチャンが困難に陥った場合、このように、神の愛が信じられなくなってしまう人がいるのではないかと思います。
神を信じる者にとって、一番心が傷つくことは、神の愛を信じられず、むしろ、嫌われていると感じることではないでしょうか。これは、神の存在を疑う者がいなかった当時のイスラエルにおいて、中風の人もこのように感じていたと思います。
一方で、失意のうちにあった中風の人ですが、希望はすぐそばにありました。彼には、4人の友人がいたのです。この4人の友人が屋根を剥がして、静かにイエスのもとに床を下ろしてくれました。
そこで、イエスは彼らの信仰をみられました。彼らは人混みの中、群衆に行手を阻まれていました。しかし、それでも、中風の人の床を担いで、階段を登り、屋根を剥がしてまで、彼らは中風の人をイエスに診せようとしたのです。
イエスはこの彼らの信仰を目の当たりにした時、どのような気持ちだったのでしょうか。彼らの行動は“なりふり構わず”でした。そして、その行動はイエスならきっとどうにかしてくれるという信仰に基づいていたのです。そこで、イエスの心は動かされたのだと思います。
だから、イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に対して開口一番にこう言いました。「子よ、あなたの罪は赦される」これは、本当に中風の人が罪深かったので、その罪を認めたわけではないでしょう。それでは、何故このようなことをイエスは言われたのでしょうか。
イエスは多くの群衆の前で、罪の赦しの言葉を発することによって、この人に対する差別をすぐさま終わらせようとしたのではないでしょうか。何故なら、神が罪赦されたことに対して、これ以上、人間が責め立てることは出来ないのです。
「子よ、あなたの罪は赦される」そして、何よりも中風の人が求めていた言葉こそ、この言葉だったのではないでしょうか。
すなわち、神に見捨てられた罪人であると感じていた者にとって、あなたは神に赦されるという言葉は、病気の症状の回復よりも求めていたことだったのかも知れません。これによって、中風の人は、友人たちの信仰ではなく、自分の信仰で神と向き合うことが出来るのです。
さて、この場面を群衆の中で見ていたのが、律法学者たちでした。彼らは心の中でこのように考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」
この律法学者たちの考えは、別に間違っていません。何故なら、当時、罪の赦しを宣言することができるのは、祭司であって、それも動物を生け贄をささげるという贖罪の行為がなければなりませんでした。
しかし、イエスはどうでしょうか。祭司でもなければ、生贄の用意もない、ただ一言「あなたの罪は赦される」これだけです。確かに、イエスが何者か分かっていない律法学者達からすれば、これは神への冒涜と言えるでしょう。
これに対して、イエスは言います。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩けと言うのと、どちらが易しいか』
私たちにとっては「どちらも難しいです、いや出来ません」と言うところです。しかし、罪の赦しは神にしか出来ないことですから、こちらの方がきっと難しいのです。
それから、イエスは中風の人に言いました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」すると、どうでしょうか。中風の人は起き上がり、“すぐに”床を担いで、家から出て行ったというのです。
この“すぐに”がポイントではないでしょうか。中風の症状の癒しがいとも簡単になされて、そして、彼はすぐに動けるようになった。これは、罪の赦しの難しさとの対比になっています。
罪の赦しは目には見えないので、なかなかそれを信じることが出来ません。しかし、イエスの一言によって“すぐに”中風が癒やされたことは、イエスは罪を赦す権威さえも本当にお持ちであるのだと、理解することが出来ます。
さて、私たちもこの物語から励ましを受ける者でありたいと思います。何故なら、私たちもイエスの十字架によって、罪の赦しを得ているからです。しかし、これは、目には見えません。一
方で、わたしたちを襲い来る試練や困難は目に見えます。そんな困難が私たちに起こるとき、私たちは神の愛を信じることが出来なくなってしまいます。
けれども、あらゆる不幸は私たちの過去の悪行と結びついてはいません。すなわち、私たちが悪いことをしたから、その報いを受けるのではありません。では、何故私たちを試練が襲うのでしょうか。ヨハネによる福音書9章1-3節には、このようにあります。
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき、目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
ここでも、因果応報的な考え方があります。この人が、目が見えないのは、本人が罪を犯したからですか。それとも、両親ですか。このように弟子達はイエスに問うのです。しかし、イエスは何と答えたでしょうか。「神の業がこの人に現れるためである」とイエスは言うのです。
何故、困難が私たちを襲うのか、聖書が伝えるには、それは神の業がその人に現れるためだと言います。私たちに何か困難が襲う時、それは神に嫌われているのではありません。
その人の困難を通して、神の力が現されるためです。どのような形で、神の力が現されるか、私たちには分かりません。しかし、どんな時でも、神は私たちと関わりたいと願っておられ、私たちを愛して、良いものを与えようとしておられます。
私たちは、罪赦されており、神と向き合う恵みを与えられています。目には見えない神の赦しを信じ、大胆に神に近づく者でありたいと思います。