2022年5月8日「羊飼いは命を捨てた」
ヨハネによる福音書10章7−21節
今日は、“羊”というキーワードを取り上げて、神とイエスと私たちの関係性についてお話をしたいと思います。
私の中で、北海道といえば、ジンギスカンからか“羊”のイメージが強いです。そして、聖書の中で“羊”はとてもよく登場する動物なので、北海道に来たら、羊の牧場に行きたいなと思っていました。しかし、調べてみたところによると、日本国内の羊肉自給率は0.6%ほどで、私たちの口にする羊肉のほぼ全てが輸入されたものです。
そのため、北海道の中でも羊牧場が少数しかないのはとても驚きでした。ネットで調べてみると、北海道の白糠(しらぬか)町に羊牧場が集まっているようなので、一度行ってみたいと思っています。
そして、行ってみたいなあと思って、早速ですが、白糠町のホームページを見てみました。すると、さすが羊牧場が集まる町だなと感心したのですが、そこには、“羊飼いになる心得”なるものが書かれていました。おそらく、語り口調から想像するに、役場の職員が羊牧場の羊飼いにインタビューして聞いたお話なのでしょう。このように書かれてありました。
羊飼いになる心得は、1つに、羊になることだそうです。羊の習性をよく知り、羊の気持ちになって考えること。羊は我慢強いから、病気になってもなかなか弱っている様子を見せないので、チョットした変化に気をつけるということです。
もう一つは、あわてず愛情を持って世話をすること。昔は、オオカミから襲われないように、一日見張りをすることでした。黄金のひづめを持つ羊に、草を食べさせているうちに土が肥え、草の密度も増してきます。土と草と羊の連携プレーを監督することも羊飼いの仕事。昔、きれいな草の刈られたゴルフ場は、羊が管理したと言われています。
この中で、印象的なのは、この言葉でした。「羊飼いになる心得は、1つに、羊になること」実際に人間が羊になることは出来ませんから、もちろんこれは比喩表現です。
何故、羊飼いは羊になる必要があるのでしょうか。それは、羊が我慢強く、病気になっても弱っている様子を見せないからだと言います。なので、羊飼いが羊の中に入っていって、共に生活する中で、その習性と気持ちを理解する必要があるというのです。
これをみて、私は今日の聖書箇所を連想しました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている 」ここで、羊と言われていますが、これは人間を表しています。まるで羊飼いの心得のように、イエスは、私たち人間を導く羊飼いとなるために、神の子が人間となって、この世界へと来られました。
それは、何故でしょうか。神が私たちに寄り添うためではないでしょうか。私たちも羊のようなものです。羊は草食動物であるため、視野が広いのですが、視力は悪いといいます。だから、外敵から身を守るため、群れになって行動して、自分の仲間についていく習性があります。
そして、羊飼いがいなければ、自分たちがどこに進むべきか分からないのです。また、臆病な性格のために、一度パニックになると羊の群全体にまとまりがなくなり、皆が一斉に逃げ出すそうです。だから、羊飼いはオオカミなどから羊を守る必要があるのです。
羊の習性を知ると、人間と共通するところが多くあるなと感じます。聖書では、人間をよく羊にたとえていますが、うまい具合に表現するなと感心します。さすが遊牧民族であったユダヤ人の発想といったところでしょうか。
私たちも羊と同様に、近視眼的で、遠くのことまで見通せず、近くにあるものばかりを追い求めてしまいます。また、何か困難な出来事が私たちに襲いかかると、どうしたら良いのかとパニックになってしまいます。
そんな私たちをよく知るために、そして、良い方向へと導くために、神の子イエスは人間となられました。どこに進んだら良いか分からない私たちに寄り添うために、イエスは人間となったのです。
そして、共に喜び、苦しみ、泣き、笑ったのです。食事をしたのです。イエスは私たちと同じように人間になって、この世の中で共に生活されたのです。
だからイエスは言います。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている 」人間として人間の輪の中に入って、イエスは一人一人と出会いました。こうして、神が人間を知っていったのです。そして、人間はイエスを通して、神を知りました。
さて、人間の羊飼いは、羊にはなれません。なので、あくまで羊になるということは理想のお話です。しかし、イエスは人間となって、私たち人間の羊飼いとなりました。イエスは神という立場で、人と接したのではありません。神自らが人となり、私たちと同じ立場となったのです。
ここで、エゼキエル書の言葉が思い出されます。エゼキエル34章11節以下の言葉です。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」
主なる神自らが羊を探し出して、彼らの世話をすると宣言されます。どうやら、エゼキエル書の書かれた時代、イスラエルの指導者たちは、神の意思に反して、民衆を虐げて、支配をしていたようです。神は、これについて厳しく「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか(エゼキエル書34章2節)」と非難しています。
弱いものを助けず、病気のものに手を差し伸べず、傷ついたものを放っていた指導者たちの怠慢さに、神自らが羊を導くと、イエスが生まれるずっと前から約束されていたのです。
すなわち、この神の約束は、イエスにおいて実現しました。苦しみ、悩みを抱え、傷ついたものを癒すため、どこに進めば良いか分からない羊を導くため、イエスは神から遣わされて、私たちと同じく人間となったのです。
イエスは羊の群れの中で、私たちを導く存在です。目の前の手近なところにしか目がいかず、どのように生きればいいか分からない私たちに、イエスは“こっちだよ”と生き方を教えてくれます。
イエスは病めるものを癒し、傷ついたものを包み、嫌われ者と食事をし、神に絶えず祈ります。私たちにそのような生き方を教えてくださるのです。
そして、忘れてはならないのは、イエスは“良い”羊飼いであるということです。ただの“羊飼い”ではなく“良い”羊飼いなのです。先程、羊飼いの心得として、“羊飼いは羊になる”ということを述べました。
しかし、イエスは“良い”羊飼いであります。何故、良い羊飼いなのでしょうか。それは、10章11節にあるように、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」からではないでしょうか。
良い羊飼いは、命を捨てるのです。敵であるオオカミが来たときに、自分だけで逃げるのではなく、むしろ、自らが犠牲となって、身代わりになるのです。
身代わりの犠牲といえば、イエスの十字架での死が思い出されます。10章18節の「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」これは、イエスの十字架での死を示唆した発言でしょう。
このイエスの十字架の死は、ただの死ではないと私たちは考えています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあるように、これは私たちのための死です。
さて、私たちはイエスの指し示した神の求めれる生き方が出来ているでしょうか。なかなか、それは実際には難しいのです。自分の目の中の丸太をそのままにして、兄弟の目の中のおが屑が気になったりします。自分のことを棚に上げて、他人の批判をしてしまったりするのです。聖書に書かれている教えが中々守れなかったりします。
そのような罪を重ねた時、かつては羊の生贄を神に捧げる必要がありました。羊を生贄として神に捧げて、人々は神に自分たちの罪深い生き方を赦してもらおうとしていたのです。
しかし、今はもうそのような必要はありません。何故なら、イエスが十字架の上で、私たちの捧げるべき一生分の羊として死なれたからです。
バプテスマのヨハネは、イエスを見た時にこのように言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」この言葉の通り、イエスは羊となって、十字架での死を受け入れ、世の罪を取り除かれました。
ここに、私たちの信じる大切なことがあります。すなわち、イエスは迷える羊を導く存在であり、そして、神への赦しを求める犠牲の献げものとして、この世へと来て下さったのだという信仰です。神はその独り子を世にお与えになったほどに、私たちを愛しておられます。
それゆえ、イエスは神と人間をつなぐ門なのです。7節には、このようにあります。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」イエスは、私たち羊の憩いの場へと繋がる門なのです。
その門をくぐって、私たちは神の守りの中へと導かれるのです。牧場には囲いがあって、そこは牧草が茂り、オオカミも寄り付きません。イエスは、私たちをそこへ導いてくださいます。
たとえ、私たちがその囲いの門に気づかずに、囲いの外にいたとしても大丈夫です。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言って、イエスは羊飼いとして、私たちの元へと来てくださいます。
ときに、私たちは迷子の羊のように、群れからはぐれて、孤独を感じることもあります。仲間だけでなく、神からも見離なれてしまったように感じられることがあります。
しかし、見離されることは決してありません。何故なら、イエスは100匹の羊の中、1匹でもはぐれたとしたら、残りの99匹を残してでも、その1匹が見つかるまで探し出してくださる方です。それだけ、私たち一人一人は神から覚えられて大切にされ、愛されています。
いつも、私たちのそばにいてくださり、たとえ迷い出ても、探し出してくださる方が神です。私たちは、決して一人ではあり得ません。平気なふりをして、強がっている私たちにも気づいてくださいます。
このコロナ禍にあって、特に先行きが見通せない時代ですが、私たちは周りにいる人々をそばに感じながら、いつも共にいて、導いてくださる方に信頼して、生きていこうではありませんか。