2022年6月5日「あなたは神の住まい」
コリントの信徒への手紙一6章12−20節
皆さんは今日の聖書の言葉の中で、印象に残る言葉はありますか。私はこの言葉が印象に残りました。「19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」
ここで、驚くべきことが語られます。私たちの体は、神から与えられる聖霊の住む神殿であると言います。私たちは神が与えられる聖霊の住処であり、今も聖霊は私たちのうちに留まっておられるのです。今日はこの19節を中心にお話をしたいと思います。
私たちの体に神が宿られている。これを私たちは果たして信じることが出来るでしょうか。聖霊は、神から与えられる特別な力であって、神のもう一つの顔なのです。その聖霊は、私たちの遠くにあるのではなく、近くにあって、いつも私たちのうちにおられるというのです。
これは、何もコリントの信徒への手紙の著者であるパウロだけの考えではありません。ヨハネによる福音書において、イエスもこのように言っています。「16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。【中略】この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
イエスは再び私たちのところに現れることを約束します。そして、その時まで、私たちといつも一緒にいてくれる弁護者、または真理の霊とも呼ばれる聖霊を、私たちに与えられるように、神にお願いすると約束されます。その約束が実現したのが、ペンテコステの出来事であります。
しかし、こんな私に聖霊なる神が宿られるはずがないと思われる方もいるでしょう。何故なら、自分自身のことを省みた時、何とも奔放で神に背くような生活をしていることに気付かされるからです。
さて、今日の聖書の箇所で、「19あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と言われる訳ですが、これはどのような文脈で言われた言葉でしょうか。
12節からパウロは、コリントの教会の信徒たちの性的不品行について主に焦点を当てて話しています。コリントの信徒たちは、グノーシス主義という考え方に染まっていました。グノーシス主義というのは、人間という存在を霊魂と肉体とに切り分けて考え、霊魂を肉体よりもはるかに上級のものであるという考えです。
その考えによって、コリント教会では、霊魂はキリストの教えによってすでに救われていると考えました。一方で、肉体は元々罪深いものだから仕方がないと言って好き放題な生活していました。12節において2度繰り返される「わたしには、すべてのことが許されている」というのは、おそらく、コリント教会の人々の口癖のようなものだったのでしょう。
すなわち、霊魂はすでに救われているのだから、「わたしには、すべてのことが許されている」と言って、自分たちの欲望のままに好き勝手していたのです。今日の聖書箇所の直前である9−10節に目を向けると、当時のコリント教会の現状が分かります。
それは、次の通りです。「9正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、 10泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
今日の聖書の箇所では、主に性的不品行について言われている訳ですが、コリントの人々の問題はそれだけでなかったことが分かります。9−10節であげられているようなことをする人々が実際にいたのでしょう。
ここで、明らかにされたコリント教会の課題は、一つの問題に集約されると思います。それは、自由の意味を履き違えているということです。
コリント教会の人々は、自由とは「すべてのことが許されている」状態であると信じていました。イエスの教えによって、自分たちは救われている。自由である。何をしても許される。このように信じていました。しかし、それはただの奔放です。
私たち人間は関係性の間で生きる存在です。私たちは人と人、人とモノとの間で関係を結びます。これは、13節において「食物は腹のため、腹は食物のためにある」といわれる通りです。食べ物は私たちのお腹を満たすためにあって、私たちのお腹は食べ物によってしか満たすことが出来ません。お互いがお互いを必要とした関係性なのです。
これは色々なことに当てはまります。プラスねじはプラスドライバーを必要として、プラスドライバーはプラスネジがなければ存在意義はありません。
しかし、コリント教会の人々は「すべてのことが許されている」と言って、本来関係を結ぶはずでないものと無節操に関係を結ぼうとします。プラスドライバーでマイナスネジをまわすようなことを、彼らは何にも縛られない状態、それを自由だと考えたからです。だから、犯罪、売春、泥酔、イエスの弟子として相応しくないあらゆることと関係を結んでしまいました。
そこで、パウロは言うのです。「13体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」ここで、何よりまず、コリント教会の人々に、あなたがたはキリストと無関係ではあり得ないということを思い出させようとします。
さらに、このようにパウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だと知らないのか」私たちは普段の生活の中で、礼拝に行って祈る、その一瞬がキリストと繋がっているのではありません。私たちの色々な顔の一側面だけ、キリスト者であることは出来ません。何故なら、私たちの一部がキリストではなく、私たちの全存在がキリストの体の一部とされているからです。
「19あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20あなたがたは代価を払って買い取られたのです」私たちは罪の奴隷から、誤解を恐れずに言えば、キリストの奴隷となったのです。奴隷は、自分自身の意思で主人を決めることは出来ません。
すなわち、私たちキリスト者はキリストの看板です。人々は、私たちの言動をみて、キリストを知ります。私たちがイエスの教えを実行するならば、人々はそこにイエスを見ます。しかし、私たちがイエスの教えの正反対なことをしたとしても、その影響はキリストまで及ぶのです。人々はそれを見て、イエスを判断します。何故なら、私たちはキリストの体の一部とされているからです。わたしたちは決してキリストと無関係なものとはならないからです。
ここまで、コリント教会の人々が犯罪、売春、泥酔、イエスの弟子として相応しくないあらゆることと関係を結んでいたことを述べました。そして、ここで再び思い出したいことは、「19あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」ということです。
コリント教会の人々がどれほど不品行なことをして、その罪に気づけなかったとしても、それでも、パウロは「あなたがたの体は神の神殿である。聖霊があなたがたに宿ってくださる」と教えます。だから、私たちの体を粗末に扱ってはならないのです。そこは聖霊なる神が宿られる住まいだからです。
教会において、よく耳にすることが、「私自身の中に聖霊が宿られていることを中々信じることが出来ません」ということです。これは、自分自身に嫌なところを見つけたとき、罪を見つけた時に尚更感じることでしょう。
パウロはこのように言いました。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」この言葉は、良くないことだと分かっていながらも、罪を犯してしまう不甲斐なさが表されています。
こんな悪意や罪だらけの私に神が宿られるはずがないと思われる方もいるでしょう。しかし、神はどんなことがあっても、あなたのそばにいてくださるために、聖霊を私たちに与えてくださっています。何か特別な時に聖霊が降るのではない。今、ここにいてくださる。私たちはその聖霊に気づくだけであります。
そして、特に心に留めたいことは、私たちの体は何か悪いことをするためにあるのではないということです。私たちの頭、口、手足は罪を犯すためにあるのではありません。悪い行いを繰り返すために、神に造られたのではない。そのため、「20自分の体で神の栄光を表しなさい」といわれます。私たちの体は、神の栄光を現すために造られたのです。聖霊の宿るわたしたちの体が、神の栄光をあらわすために用いられますよう祈りましょう。