2022年4月17日「小さくされた者から」(イースター礼拝)

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4月17日「小さくされた者から」

      

ヨハネによる福音書20章1−18節

私が3月末に岩内に来て、もうすぐ三週間が過ぎようとしています。だいぶ岩内町にも教会にも幼稚園にも慣れてきましたように思います。風が強く、朝と夜は肌寒く、岩内らしい春を過ごせている気がしています。

 幼稚園では、朝登園してきた子ども達を玄関で出迎えるのですが、ようやく6割くらいの子の名前を覚えてきました。私が初めて園に出勤した時、園の玄関で、発泡スチロールで作られたケースに蝶のさなぎが飼われていることに気づきました。

 幼虫からサナギ、そして蝶になるまで、みんなの視線が集まる玄関で、サナギを飼うのはとてもいいことだと思いました。しかし、よく見てみると、私の目には、そのサナギは生きているのか死んでいるのか分からず、少し干からびているように見えました。

 後日、幼稚園の先生にサナギは生きているのか聞く機会がありました。話によれば、冬で寒かったこともあって、ずっと長いことサナギで、もしかしたら死んでいるかも知れないということでした。なので、子どもたちの目には届かない職員室でサナギが飼われていました。

 それがなんと、先週の間で(数日前に)二匹がサナギから蝶になったのです。そこで、私は先ほど歌った「球根の中には」の歌詞を思い出しました。「球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく 寒い冬の中 春はめざめる その日、その時を ただ神が知る」さなぎの中から、いのちはばたく。一足先にイースターの喜びを味わうことが出来ました。

 実は、二匹目の蝶が羽化した金曜日が受難日でした。イエス・キリストが十字架にて処刑された日です。イエスが十字架の上で亡くなった後、その遺体は十字架から下され、ユダヤのしきたりどおりに香油が塗られて、亜麻の布で包まれたようです。

 しかし、遺体を処理した人は急いでいたかも知れません。何故なら、もうすぐ日が暮れようとしていたからです。ユダヤでは日が暮れて夜になる時に、新しい1日が始まります。日没で、金曜日が終わって、土曜日となるのです。

 そして、土曜日は安息日といって、ユダヤ社会では働いてはダメな日ですから、死体の処理が出来ません。だから、きっと急いでいたことでしょう。遺体処理が多少雑になりながらも、イエスを処刑場の近くの墓に埋葬しました。

 今日の聖書の物語で、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れたのは、このような理由があったからでしょう。すなわち、もっと丁寧に遺体を処理(防腐処理)してあげたかったということでしょうか。

 だから、安息日である土曜日が終わり、夜が明ける早朝に、マグダラのマリアはイエスの墓を訪れたのでしょう。他に誰も連れず、女性一人で早朝にお墓に向かう。どのような心理でしょうか。

 お墓も私たちの考えるお墓の形ではありません。洞窟のような横穴に、大きな石の蓋でお墓は塞がれています。そして、成人男性が何人もいてようやく墓を開くことが出来るのです。

 なので、マグダラのマリアだけでお墓に向かったところで、お墓の中に入って遺体をどうこうする事はできません。マグダラのマリアにもそれが分かっていたはずです。しかし、それでも居ても立っても居られず、マグダラのマリアはお墓に向かうのです。何が彼女をそこまで突き動かしたのでしょうか。

 ところで、聖書の知識がない人でも一度な耳にしたことがある“マグダラのマリア”とは一体どのような人物であると考えられているかご存知でしょうか。マグダラのマリアはマグダラという場所出身のマリアという意味です。聖書の中でも、マリアは何人も出てきますので、出身地を前につけてマグダラのマリアと呼ばれます。

 聖書の記述によると、マグダラのマリアはイエスに7つの悪霊から解放してもらったとあります。では、7つの悪霊とは何か。当時、人間の力を超えた何か、見えない力を感じた時に、それを「霊」と呼んでいました。

 それは良い霊と悪い霊で区別されており、良い霊は「聖なる霊」と呼ばれ、悪い霊は「悪霊」と呼ばれていました。悪霊は悪さをする存在だと考えられ、「悪霊」によって「病気」になるという考えが根強くあったようです。

 さらに、悪霊に取り憑かれて病気になる人は、自業自得だと考えられていました。本人やその家族が何か悪いこと、罪深いことをしたから病気であると考えられていたからです。そのため、公然と病気や障害がある人が差別を受けるということがありました。そして、人々はそれを何もおかしいことだと思わなかったのです。

 そんな「悪霊」が7つも憑いていると噂されていた女性が、マグダラのマリアでした。ユダヤにおいて7という数字は、特別な意味を持っていて、“無限”に近いニュアンスがあります。

 すなわち、マグダラのマリアは他の人から見て、「7つの悪霊が取り憑く」とされる本当に救いようもない人物で、人々から避けられ、陰で噂され、おそらく自分自身の病気に苦しめられていた人でした。

 マグダラのマリアはどういう気持ちで生きていたのでしょうか。自分自身の病気のために、7つの悪霊に取り憑かれていると噂されたなら、そして、人々から受ける差別が当然の報いとして考えられたなら、皆さんはどんな気持ちで毎日を生きるでしょうか。

 それが、イエスと出会って、マグダラのマリアは大きく変わりました。イエスの仲間として旅をして、エルサレムへと同行し、十字架に磔にされたイエスを最後まで見守りました。

 イエスが復活するの日の朝、マグダラのマリアが一人墓に向かったということは、それだけ、イエスを慕っていたということでしょう。イエスを大切に想っていたのです。そこで、マグダラのマリアは異変に気づきます。イエスの墓を塞ぐ石が転がされて、墓が空いているのです。

 それから、マグダラのマリアは怖くなったのか、イエスの二人の弟子のいるところに、このことを伝えに行きます。「主が墓から取られました」マグダラのマリアは、墓荒らしにあったと思ったわけです。

 この言葉を聞いて、二人の弟子が墓へと駆けつけるのですが、これについてまで詳細に言及すると、話のまとまりがつかなくなるので、軽くにとどめます。マグダラのマリアの話を聞いて、二人の弟子は墓へと駆けつけました。

 一番についたのは、主の愛した弟子として名前が伏せられたヨハネでした。次についたのは、もう一人の弟子シモン・ペトロでした。二人は、墓の中に入り、イエスを包んでいた亜麻布や頭の布を見つけ、イエスが墓からいなくなったことを確認して、家へ帰りました。

 その後から、マグダラのマリアが墓に来ました。やはり墓の中にイエスの姿は無く、墓の外でおんおんと泣きました。自分を失意の底から救い出してくれた人が何も悪いことをしていないのに十字架で処刑され、そして墓まで荒らされたと思ったのですから当然ではないでしょうか。彼女はまた失意の底に落ちてしまいました。

 聖書では、そこに現れたのがイエスだったとあります。どうやって復活しただとかは語られません。物語の中で、すっと現れるのです。そこで、マグダラのマリアはイエスの存在に気づきます。しかし、それがイエスとは分からず、墓地の管理人だと思いました。

 マリアはイエスに言います。「もしあなたがあの方を持って行ったのでしたら、どこに置いたか教えてください。私が引き取りますから!」本当に、マグダラのマリアはイエスを慕っていたのだなと思わされます。

 そこで、イエスはただ一言「マリア!」と呼びかけます。マグダラのマリアはその瞬間、目の前の男がイエスだと気づきました。それから、イエスはマグダラのマリアに言うのです。「兄弟たちのところに行って、わたしは、私の父にしてあなたたちの父、私の神にして君たちの神である方のところに上っていくと伝えなさい」

 マリアは、その言葉通り、イエスの弟子たちのところに行って伝えるのです。「わたしは主を見ました」こうして、マグダラのマリアはイエスの復活の喜びを伝える役目を与えられ、それを行動に移したのです。

 ここまで、聖書の物語を見てきましたが、イエスの復活の出来事は、イエスが主人公という描かれ方ではなく、むしろマグダラのマリアにスポットライトが当たっているように感じます。

 そして、疑問に思うわけです。何故、イエスは復活して最初にマグダラのマリアと出会い、復活の喜びを伝えてまわる役割を担わせたのか。当時のユダヤ社会は男性優位社会で、女性は公での発言力はなかったのに、何故マグダラのマリアだったのか。さらに、社会の中で、小さくされた女性の中でも、7つの悪霊に取り憑かれたという偏見に晒されていたマグダラのマリアだから尚更です。

 復活の証言者としては、頼りなかったわけです。マグダラのマリアが人々に、「主イエスは復活された!わたしは主を見ました」と証言したとしても、周りの人が「そんなわけない」といえば、それで終わりです。そして、「また、マグダラのマリアがおかしな事を言っている」なんて噂されて終わりでしょう。

 しかし、イエスは誰よりもまず、マグダラのマリアに現れたのです。社会の中で、小さくされた者にまず、イエスは喜びを伝えられます。再び、マグダラのマリアは失意の底から、喜ぶ者へと変えられました。

 私たちも、このイースターの時に思い出したいものです。人間は死で終わらないこと。イエスの十字架の死と復活によって、私たちもその希望に預かっているということを。そして、神は特に小さくされたものに目を向けてくださるということを。

 私たちも性別、国籍、学校、住んでいる地域、趣味、職業、年齢、容姿、障害の有無、様々な要素によって、人々に判断され、蔑ろにされることがあります。偏見や差別は中々解消されず、人知れず心に傷を負っている人がいるでしょう。今だと、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻があり、沢山の民衆が傷つけられ、難民となり、今なお、混乱の渦中にいます。

 たった今、マグダラのマリアのように、失意の底にいる人々が沢山います。目の前が真っ暗で先行きが不安でどうにかなりそうな人たちが沢山います。しかし、このイースターの出来事からわかることは、神は必ず悲しみを喜びに変えてくださる方であるということです。お祈りしましょう。

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